日本たべもの総覧

日本たべもの総覧(21)

菓子【かし】

菓子は古代では「くだもの」と呼んでおり「果物」のことであった。弥生時代の出土品のなかには、穀類の加工品があるが菓子のうち主たるものは果物である時代が続いた。垂仁天皇の御代に、田道間守(たじまもり)が常世の国へ派遣されて、非時香果(ときじくのかくのこのみ=夏に実り、秋冬になっても霜に堪え、香味が変わらない木の実の意)を求めたという伝説がある。「非時香果」とは橙の類であろうといわれているが、この伝説に基づいて後世、田道間守を日本の菓子の祖と仰いでいるのは、やはり菓子が果物だったからである。やがて、中国との交渉が盛んになって、穀類の加工品である菓子がもたらされた。そこで、これらを「唐菓子」(からくだもの)と呼んだ。

唐菓子は日本人の嗜好に適し、次第に発達したが、平安時代をへて鎌倉・室町時代になると茶道の普及にともなってその点心に選ばれ、急速に発達することになった。続いて、室町末期から戦国・江戸初期にかけて、南蛮菓子が紅毛人によってもたらされ、菓子の種類がふえると共に、旧来のように果物と同一視することは不可能になってきた。そこで、徳川五代将軍綱吉の頃になると、ついに果物を水菓子と呼んで、はっきりと区別するようになった。ここに、ようやく菓子は菓子として独立するようになったのである。その後、明治維新によって外国の菓子が多種類にわたって知られるようになり、今日に及んでいる。

焼米と糒【やきごめとほしいい】

弥生時代の出土品のなかには穀類の加工品である「焼米」(やきごめ)と「糒」(ほしいい)がある。「焼米」は、稲の実を煎って籾殻を除き、さらに煎ったものである。「ほしいい」は米を蒸して乾かしたもので、後の「おこし」はこれが発達したものと考えることができる。

いずれも常食し、また兵糧としても用いられたが、主として間食として重宝がられたらしく、後には菓子と見なされたことが、文学作品によってうかがえる。

唐菓子【からかし】

中国(唐)との交渉によってわが国に伝えられた菓子の総称で「からくだもの」と呼ばれた、「延喜式」には8種類の唐菓子があげてあるが、いずれも穀類の加工品である。上流社会で好評を博すとともに、形や中味もしだいにととのえられたものと思われる。8種の唐菓子は、梅枝・桃子・桂心などで、たとえば梅枝は米の粉をこねて茄で、さらに薄く引き延ばしたものを、長さ八分・幅二分ほど、元の方を細く、末の広い方を四つに切りさき、二つずつ合わせて色をつけ、花のような形に作って油で揚げ、乾かしたという。このほか、14種類の菓餅もあったが、その中には「うどん」の前身である「餛飩」(こんとん)や現在山梨県地方の郷土食である「ほうとう」などの名が見える。

参考資料「日本たべもの百科」新人物往来社刊

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