日本たべもの総覧

日本たべもの総覧(22)

おこし【おこし】

唐菓子のなかに「こめ」というものがあり、和名を「おこし」といった。米に蜜を混ぜながら煎った菓子で、これが「おこし」の前身である。現在の「おこし」には、関東系のものと関西系のものがある。関東系のものはまず、うるち米を膨脹器で煎る。次に砂糖を水で溶いたものにアメを加えて煮詰め、火から下ろして手早く煎り、米を混ぜ固めて、器に入れて庖丁で切る。好みによって、黒豆やピーナッツを混ぜることもある。

関東系で有名なのは東京浅草の「雷おこし」で、おこしの真ん中に「へそ」つまり黒豆がある、関西系のものは、「ほしい」を挽いて細かくし、蒸してから陽にあて、適当な硬さになったら、アメと砂糖で練り固める。硬いので「岩おこし」ともいう。江戸時代の1752年、大阪道頓堀の津の国屋清兵衛が、「ほしい」の代わりに粟を使い、黒砂糖アメを用いて創製したのが「粟おこし」で、大変な人気を呼び、今日の「岩おこし」の隆盛をみちびいた。

大阪の「粟おこし」に、梅鉢紋を用いるのは、菅原道真公が九州の太宰府へ流されたとき、現在の天満宮のあたりで、老婆が菅公に「おこし米」をを差し上げたという伝説にちなみ、菅公の紋を商標登録としたものである。東京と大阪のほか地方にもいろいろな「おこし」がある。例えば室町時代にハト麦で「おこし」を作った伝統をひく、熊本県八代の「よくいにんとう」、秋田県の「東おこし」、三重県の「桜おこし」などがある。

【あめ】

飴

「あめ」というと現在ではキャラメルやドロップなどのキャンディ類を思い浮かべるが、これは欧米から渡来したもので、日本では古来、「麦芽あめ」あるいは「水あめ」などの「澱粉あめ」をさしていた。「あめ」はかなり昔から作っていたらしく『日本書紀』の神武天皇の項に「あめ」をつくることが記載されている。当時の製法は明かではないが、最初は「米もやし」を用い、後に「麦もやし」に変わったようである。

平安時代、すでに飴屋(あめや)が京都にあり、鎌倉時代には行商の飴屋が現れたことが記録に見えている。しかし、盛んになったのは戦国時代の後で、大阪落城後、浪人の平野重政が大阪で「平野あめ」を創始し、やがて江戸浅草に下り、「千歳あめ」を売り出して名物になったといわれている。とはいえ、この頃の「あめ」はまだまだ粗悪で、色も茶黒いものであった。ようやく享保のころ(1720年頃)、越後高田の高橋孫左衛門が粟の「あめ」をつくり、ついで二代目の孫左衛門が寛政年間(1800年頃)もち米を麦芽で糖化させて、初めて透き通った優良な「あめ」を作り出した。

ところで「飴売り」の行商人は、鉦(かね)を鳴らしながら「歌念仏」をうたったり、唐人(とうじん)の姿をして「唐人あめ」を売ったりして人気を得て諸国に芸能を広めた。昭和初期まで存在した「あめ細工屋」を覚えておられる人もいることでしょう。

現在、夏目軟石の小説『坊ちゃん』で知られた越後の「笹あめ」など、地方の名産がいくつかあるほか、寒天を加えた「翁あめ」、咳止めの薬を加えた「浅田あめ」、「南天のど飴」などが医薬品としてもよく知られている。ちなみに、「のど飴」とはせき、たん、炎症などによる声がれ、のどのあれ、痛み、不快感等をいやす飴のことで、近年は成分による基準がないため、黒砂糖や果汁、ハッカ、メントール、生薬、香草(ハーブ)などを含む多品種ののど飴が薬局やスーパーなどで販売されている。

参考資料「日本たべもの百科」新人物往来社刊

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